はじめに

~~誰も手をつけないダイナミズム解明のために

 

 クライミングにおけるわれわれの身体の動きの核心は、普段なじみのない重力環境をこなすところにあり、それがこのスポーツの最大の特徴である。

 そのため、クライミングの技術を習得するには、われわれのふだんの生活にない、つまり非日常の重力方向をうまく捌きながら、からだの動きを組み立てなくてはならない。そして、その習得の時期はスタートから初級レベルを終えるまでにある。グレードで言えば11aあたりまでだろうか。

 

 クライミング技術の習得の失敗は、そうした身体の動きの組み立て段階でおきる。どのようなスポーツも、そのスポーツ独特の身体の動かし方を習得する必要がある。とはいえ、それが終われば、定められた重力の枠内で、既知となった組み立てによって身体を動かし、技能を積み上げていく。 

 

 しかしクライミングの身体の動きにおいては、いわば日常と非日常の重力環境の往復運動が大きなウエイトを占めている。

 そして問題なのは、ふだんと違う重力方向を受けとめようとすると、われわれの身体が本能的に危険回避の反応をしてしまう(たとえば正対にもどる)ことだ。結果、目指すべき身体の動きの組み立てにいたらない。地上のスポーツと同じように考えて取り組むとまず失敗する。

 

 しかし逆に言うと、スタートしたあと、少ししてやってくる、この非日常のダイナミズムの習得がいちばん面白い。なぜといって、からだの動かし方が「未知との遭遇」だからだ。

 

 こうしたクライミング独特の難しさは、学習者の失敗のみを意味しない。現在のクライミング理論構築も同じところで行き詰まり、失敗している。

 

 ほとんどの技術書は、クライミングがどのような要件に拠って立ち、その独特の重力環境下で、どう基本的な身体の動きを組み立てていくべきか、つまりいかなるパラダイムのもと、どのようなダイナミズム(力学)でクライミングが行なうべきか、を説明していない。

 

 それは難しすぎる。だから経験的な表現、感覚的な説明に逃げ込んで、その一方、たいして必要でもないテクニックの羅列、本筋からはずれた末梢の断片的な技術解説に頁を費やしている。

 

 実地のインストラクションは、ほとんど経験に基づいて登り方を教え、動きをひとかたまりとして示す。しかし、背景にある基本的な動きの仕組み、組み立てについての認識には至らない。

 だから登りは似ていても、ときに狙うべき身体の動きが、近似値でずれてしまう学習者があらわれる。力の入れ方や微妙なバランスは外見からはなかなか掴めない。

 

 経験値によるインストラクションは、身体のダイナミズム(力学)の構造的、体系的な把握をベースにしていないから、学習者は学んでいる身体の動きの原理が理解できず、自分自身の登りの組み立てのなかにどのように位置づけしたらいいか分からず、ときに遠回りをすることになる。

 

 

  つまり、なにが問題かというと言うと、このスポーツの重力環境と、そこで求められる身体の動き、ダイナミズムの関連を、一般化、普遍化し、順序だて、構造的、体系的に捉える作業が決定的に不足していることである。

 

 身体の動きの学習とは、断片的な技術パターンの羅列を身に付け、その経験を積み上げていけば事足れりというようなものではない。

 

 そのようなレベルの把握では、動き本来の重層的な構造、つまり基幹の動きとそれをベースにした展開の動きの相互の関係、さらに個々の動きの位置づけができず、ものごとがアベコベになる。まして重力環境の変化などについてはいけない。

 結果、インストラクションで、方法は与えられても、それをどう構成し活用するかは、学習者本人におまかせ、ということになる。

 

 そうした反省のもと、この論考では理論と言うには憚られるものの、出来る限り、クライミングを動きの変化の中で捉え、体系的、構造的なアプローチから理解し捉えようとした。経験論も大切だが、その前提として、動きの基本の組み立てや体系的、構造的な把握がないと理解の軸がぶれてしまう。

 

 順序として、登りに必要な身体の動きの要件をまず押さえ、そこから導かれる壁の中での身体の保持のありかた、さらに登るのための基本の動きを「フォーム」の概念で示し、なぜそのフォームが合理的かを説明した。

 さらにフォームと混在してごちゃごちゃになっている「ムーブ」と呼ばれるいろいろなテクニックをその上に位置づけた。

 

 一方、身体の動きが常にひとつの同じ位相にあって、個別の技術を積み上げれば全体に至る、という誰もが陥りやすい考えの限界を提起した。

 

 そもそも身体の動きとは、一方向のプラスばかりではない。マイナスも加わって、動きが生まれる。どのようなスポーツも、その身体の動きには、注力と脱力、あるいは体勢の転換といった、いわば正と負の往復の構造がある。その転換をいかにすばやく、スムーズにするかが問われる。

 さらにクライミングで特徴的な、重力の解放、転換による受容にとくに注目し、それにともなう注力と脱力の交互の動きの中で位置づけた。当論考では、この構造を「パラダイムの転換」として示している。

 

 さらにもうひとつ、現在のクライミングの混乱の現場とさえ言えるジャンルというものを身体の動きから捉えなおした。現在、クライミングの世界で、この考察が一番欠けている。

 

 ボルダーなどあたらしいジャンルが加わったが、なんでも壁を登っていればクライミングとし、身体の動きそれ自体からの登りの解析が追いついていない。しかし、ジャンルの比較は、実はクライミングの何たるか、つまりダイナミズムの本質に迫る最も分かりやすい方法でもある。

 

 それぞれのジャンルのクライミングが、一見同じように見えても、目的が違えばからだの動きやフォームは違って当然だ。どのジャンルもこなすオールラウンダーはいるだろう。しかし何にでも通じるオールマイティの方法などない。

 

 いろいろなジャンルの登りを、十羽一からげに同じクライミングとして捉えるのが、現在の考え方だが、こうした迷妄と錯覚を批判的に捉え、見直している。

   実際、ボルダーとルートのクライミングは、いま、いちばん注目されながら、だれひとりとして、その違いを説明できないではないか。

 当論考では身体の動きを2つのモードとして捉え、クライミングはこのAモード、Bモードの2つのモードで行われるとして、登りというものの本質に迫ったつもりだ。このモードの違いは、パラダイム転換がカギとなっていて、これの何たるかが分かれば、身体の動きの基本が見えてくる。

 

  動きの力学を理解せず、モードの違いを整理せずに練習し、相反し反発しあうものを、同じ皮袋に入れることは、技術習得を混乱させ、上達を最も遅らせてしまう。

 練習しているのに、こんなはずはない、とショックを受ける気の毒な学習者があらわれる。ジャンル間の構造の違いを示したつもりだ。

    *        *        *

 

 この論考は、現在のクライミング界で、だれも手をつけようとしない、否、そんなものがあるとさえ思われていない、登りのための「身体運動のダイナミズム」へのアプローチである。

 

 このほとんどブラックボックスとなっている身体の動きのメカニズム、ダイナミズムを捉えることができれば、アルパインは何か、ルートフリーとは、ボルダリングとは何かが、解明できるはずだ。それどころか、クライミングがそもそもどういうものか、が見渡せるようになる。

 

 そして、全体を見渡せたら、もう迷うことはない。理屈もわからず、むやみなトライを繰り返す必要もない。自分が求めるクライミングの方向が決まれば、そのために必要な方向性、いま何をすれば良いかが見えてくる。

 

 下の図は第?章でも説明しているクライミングの上達曲線である。一見すれば分かるが、習得時間と難度が正比例していない。スタートしたあと曲線は急に立ち上がっている。つまり、クライミングの身体の動きの構造、モードが分かれば、短期的に、登れる難度を一気に上げられるのだ。

 

 この論考は、その方法を説明したものでもある。クライミングがどういうものか、どうも分からないというあなた、学習しているが、途中でつまづいてしまったあなた、そうした人のための論考である。

 

 50年前におきたクライミングの身体の動きの新発見を知っていますか?クライミングは、それ以後、急速に進化し、何度かの変遷をくぐって、今日にある。

 ウインパーのマッターホルン登頂とか、ヒラリーとテンシンのエベレスト登頂など、確かに大きなエポックであるだろう。しかし、私のようなへぼクライマーにはあまり関係がありません。

 わたしが言う新発見と歴史は、どこかに記録や、文献があるわけではない。また、この歴史の事実は実証的に解明出来るものでもない。

 しかし、その歴史は私たちの身体の中に、クライミングの中に息づいている。これほど、身近で、重要なことは無いのに、だれも気づかず、そのことを意識して言ったためしがない。なぜこんなことがわからなかったのか、不思議な限りである。

 この論考を読み終えたとき、あなたは、わたしが言っているこのが「世迷いごと」の意味が解けると思う。あなたの目の前に、真実はあり、それは言語化にして、初めて気づきにいたる。それでは、それが何なのか、読了後のおたのしみに・・。

 何事もそうだが、目に見えているもの以外に、(クライミングの)秘密などありはしない。徹底的にものを見て、考えて、現実を解釈し、いかに真実に近づくかだ。地球の姿はわれわれの目の前にある。それを平面だとするか、球体だとするか、それはあなたの観察力であり、思考力である。


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お断り

 この本稿について、以下にいくつかお断りしておきます。

 

 1)本稿は、クライミング全般を扱っているとはいうものの、インドア、それもスポーツクライミングの視点から論じています。それは概念の仕分けがはっきりし、扱いやすい、ということのほか、この分野がクライミング全般に通用するものを持ち、理論を扱う場合、要(かなめ)の位置にあると思うためです。

 

 2)本稿では、いわゆる身体の科学的な運動理論には踏み込んでいません。わたしが、そういうものに門外漢であるためですが、ただ科学的な運動理論が万能だという考えも持っていません。もし科学的な方法が万能なら、クライミングの理論など、とっくの昔に解明されていたでしょう。ただし、科学的な運動理論で解明した方がいい分野もあります。ボルダリングがそうですが、それは専門の方の解明に待ちたいと思います。

 

 3)本稿が狙っているのは、いわゆるノウハウ書、技術手引書ではありません。理論というには憚られますが、クライミングの原理について、種明かしを試みたものです。ようするに仕組みの解明ですが、どのようなものも、仕組みの把握が混乱していては、技術もノウハウもあったものではありません。ですから、どちらかというと、あなたのクライミング理解のチェックツールのように扱い、あなた自身の身体の動きを考えるきっかけにしていただければ幸甚です。なお、叙述にあたっては対象に正面から取り組むことを目指し、「美しい」とか「バレーのような」とかの感覚的表現、文学的表現、レトリックの類は、できるかぎり避けています。

 

 4)現時点ではようやく3章ぐらいまでが固まってきただけで、全体としては未完成です。最終的には、<仕組みの解明>をベースに効果的な身体の動きの作り方、練習法まで狙っていますが、いつのことになるやら・・。

 

 なぜこんなものを書いたのか?自分で自分に問うてみて、なにごともわけも分からずにカッコイイと思って取り組む、そういうアスリートが嫌いだからでしょう。全体像が見えないと、きっと落ち着かない性格だからでしょう。

 この論考について、ここがおかしい、この説明ができていない、など忌憚のないご意見をお待ちしています。             筆者敬白