ボルダリングブームで、ボルダージムが乱立している今日この頃だが、このルート設定、すこし身体能力がある若者なら、1-2年の経験でできる。実際にインストラクターの経験が2年というボルダージムもあり、そんなにお手軽なんだ、と驚く場合もある。
 もちろんベテランの設定した好ルートもあるが、違いを見分けるのは、かなり登りこんだクライマーでないと難しい。ビギナー相手なら、簡単に誤魔化せる。
 ルートは難しいものを作ろうと思えば、実にかんたんに出来る。安易なルート作りの極意をあげると、まず第一がホールドを遠く設定するという方法。このようなルートは、リーチものといわれるわけだが、背丈やリーチのあるもの勝ちという設定で、手が届く者と届かない者で、決定的な差が出る。
 次に安易に作れるのは、ホールドを小さくするとか、つかみにくいものを選ぶ方法。まず作ってみて、やさしいなと思ったら、悪いホールドを持ってくる方法だ。
 最後が手足の位置を狭くしたり、足を高く上げるようにする方法。身体の柔軟性のある者には有利だが、そうでない者は、まるで出来ない。
 もうひとつは、思い切り力が必要な設定。ハングでぶらさがる設定にするなどする。いずれにせよ、これらの方法が各ジムでは、実に安易に設定に使われている。
 こうしたジムでは要するに、力比べ、柔軟度比べをやっているようなものである。トレーニングと割り切ればいいけれど、こういうジムに行っていると、クライミングって、要するに力比べかと勘違いしてしまう。
 では、どういうルート設定がいいのだろうか?まず言えるのは、お手軽設定ルートの反対を考えればいい。ホールドは誰にも届くけれど、届いただけでは登れないというルートだ。
 そして、ホールドはそこそこいいのだが、どう使っていいかわからない、使い方に苦慮するルートだ。そして、極端な柔軟性を問わないが、それでも解決しないルートだ。
 そして、これらの前に、ちょっと見ただけでは解決ムーブが見つからないルートだ。頭をひねって、ああでもない、こうでもない、と頭をひねるルートがやはり最高だろう。ようするにこういうルートは、人間の身体の動きの常識に挑戦しているとさえ言える。
よく見かけるのが、手順もなにも見ただけで分かるルート。それにトライしている連中というのは、一種の筋トレで、身体の動きを繰り返し試しているだけ。言ってしまえば、クライマーのおつむのレベルはその程度だけれど・・。
 ボルダーの醍醐味は、やはり身体全体の動き、技として、課題を提出しているかだろう。「このような動きができますか?」「どのようにして手足をさばいて、課題を解決しますか?」・・こういうことを、チャレンジするクライマーに問いかけているルートを”良いルート”というのだろう。
 


 

     
     
     
     
     
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開設日: 2017/9/17(日)

 

テレ朝記者の「藪の中」

 ほとんど1年ぶりのブログ更新。今回のテーマもオンナ、どうもオンナには幼児体験からの怨念があるみたいだ。
 財務省の事務次官がテレ朝記者に対するセクハラ問題で辞任した。これに対する見方はいろいろあって面白い。どれも事実とも言えるし、そうでないとも言える。真相はにわかには判断できないというのが本当で、芥川龍之介の短編「藪の中」を思い出した。
 「藪の中」のストーリーは、もう忘れてしまったが、殺人と強姦(時代は戦国時代なので、強姦という言い方が妥当かどうか不明だが・・)がテーマで、罪に問われた男と女の言い分がまるっきりアベコベで、真相は「藪の中」、世界の構造はこんな風に出来ていると、学生時代考えたことを思い出す。
 それはともかく、財務省とテレ朝のこの事件、セクハラというのが通り相場だが、背景にハニトラの要素もあるし、パワハラも絡んでいる。要するに、女性はそのような複雑な状況のなかで生きていて、結果、精神構造、身の処し方も複雑にならざるを得ないのだろう。そう考えてみると、気の毒な存在ではある。
 私の考えたこの事件のストーリーだが、財務省事務次官とテレ朝女性記者は1年以上、8回も会っている。それを今さらセクハラというのは解せない。つまり、テレ朝記者はハニトラ絡みの取材で、次官を籠絡しようとした。だから記者の方も最初はノリノリ。テープはいざというときの取材内容に関する証拠物なので、最初から録音を取っていた。
 しかし、次官の方もハニトラで押さえ込まれるほどのヤワではない。記者の方はセクハラの反撃を受けてしまった。これは人生経験の差なのだろう。つまり、問題のテープは、財務省のリーク情報の証拠物から、セクハラ事実の証拠物に、性格が変わってしまった。
 だから、記者が新潮社に持ち込んだテープはつぎはぎにならざるを得ない。取材対象者の承諾を得ない、ほとんど盗聴まがいの目的のテープの部分と、セクハラの反撃を受けてしまったテープの部分である。もちろん、この2つは交錯していて、つぎはぎにならざるを得ない。
 いっぽう、テレ朝上司はパワハラ気味に、記者をハニトラまがいの取材に追い込み、そのことは記者は毎度のことなので、取材を続けた。そのうち、記者がセクハラに追い込まれて、社に泣きついたわけだが、ハニトラ取材が半ば常識のテレビ局では、「なにを今さら」と、記者の尻を引っぱたいたというわけ。テレビ局としてはハニトラそそのかし、セクハラ無視という2つのパワハラをしたわけだ。結果、男を舐めきっていた記者が週刊誌に駆け込んだ、というわけ。
 これ、誰が悪いんだと思う。めくそ、はなくその類だが、個人のレベルを超えて、見てみぬ振りをし、不正を状態的な業務活動としてきたテレ朝がもっとも悪いんじゃなかろうか?
 ちなみに女性記者の心理状態を言うと、どこからどこまでが、自分が仕組んだハニトラで、反撃を受けたセクハラなのか、さらに取材活動もどこまでテレビ局のパワハラで、どこまでが自身が自主的に仕掛けた行為なのか、分からないだろう。オンナとはそういうふうに厄介なものである。
 
 

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 コイケ劇場が大失速。すくなくともこれで、日本は救われそうだ。日本が緑のタヌキに化かされる危険は遠のきつつある。日本国民も、それほどお馬鹿さんではないようだ。よかった。
 コイケ劇場の第二幕は、田舎芝居の店じまい。まず、希望の党の惨敗から、選挙後におこる野望の党ならぬ野合の党のハチャメチャ劇。責任追及、離党続出、新代表と新執行部の選出。コイケの除名、退陣をふくめた、若狭、細野、長島、松原、玄場のお笑いコント。前原がそのお笑い衆にくわわるか?
 そして第3幕は東京都の混乱の後始末。緑のタヌキが演じる都議会ハチャメチャ劇。都議会シアターはオリンピックが最後の仕上げとなる。もしかしたら、途中で緑のタヌキはどろん。木の葉の小判をつかまされる後継都知事は誰になるのか、これも見もの。

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 コイケがついに衆院選不出馬になった。この女の政界引退までの一里塚といったところか?
 オリンピックはどうなるか?豊洲市場はどうするか?都民ファーストでは何がはじまるか?これからは、負のコイケ劇場が始まりそうだ?
 コイケを選んだ人たち、中でも女性たちはやりきれないだろう。でもしっかり現実をとらえ、自分が投じた一票の重みを、その結果をかみ締めて欲しい。
 これは、無責任、ムード投票に大きな教訓となるはずだ。オリンピックはコケレば良い。豊洲も築地も生かして、借金をふやし、中国並みのゴーストタウンにすれば良い。それで、都民の目が覚めるなら。
 ただし、観客が去っていき、コイケ劇場のカンバンがおろされるまで、後何百億円必要なのだろうか?それもこれも、選挙民が目を覚ますためのコストなのだろう。
 もちろん、コイケのことだから、補選を通して、国政にトラバーユ、逃げる算段をもう始めていることだろう。しかし、希望の党は、選挙が終われば、代表選びでコイケは追い込まれる。そうでないまでも、これまた泥舟になるので、脱出するネズミどもが船底で待ち構えている。
 またまた政界再編、日本の政治がまともになるには、あとどのぐらいの歳月がかかることやら・・。

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 小池百合子のことを各メディア、ネットがいろいろ論評している。いわく、論理の辻褄があわない、思い付きだ、無責任だ、場当たりだ、中味がからっぽ・・などなど。
 しかしどうも、どの論評も、女性というものがどういうものか、てんで分かっていない。小池百合子はまさしく典型的な女性であり、発想法、決断の仕方、など女性そのものであって、なにも驚くに当たらない。タイプも状況もまったく違うわけだが、不倫問題で政界からトンズラした、山尾しおりと変わらない。
 まさしく女性が、彼女たちにふさわしくない場所に出てきて、彼女たちが信じる行動をして、自身がどのように振舞えばいいのか分からず、破綻しているのだが、彼女たち自身、場違いのところにいるため、そのこと自体、ピンときていないだけなのだ。
 女性の中にも、有本香、福島香織、河添恵子など、やっている仕事内容、その主張に舌をまくような人もいる。

 話はもどるが、小池は「選挙の結果を見て、首班指名はきめる」という。これは、常識では考えられない答弁で、並み居る評論家も、ここまで次元が落ちると、どう論評していいか苦しんでいる。
 彼女の言うことは、すべてこの伝で、政治とは何か、公約とはなにか、改革とはなにか、民主主義はなにかなど、原点の原点から解きほぐさねば答えられないもので、論理のしがらみに前提を持つ者(ふつう皆がそうだ)にとっては、にわかに反論できないものとなっている。
 しかし、考えてほしい、選挙でどのような結果が出るか分からない。過半数を超えるか、それとも、そこまで行かないものの、キャスティングボードを握るか、はたまた惨敗して、箸にも棒にもかからないことになるか、今の段階では分からない。
 それを、選挙の結果が出てから判断したいというのは、彼女個人に限って言えば理が通っている。彼女は一番いい選択肢を、状況にあわせて選びたいと言っているわけで、それに対して「なにか文句ある?」とでも彼女自身は思っているだろう。
 公約の内容も同じだ、「満員電車ゼロ」、「原発ゼロ」、「消費税凍結」など、ゼロ公約自体、彼女の希望なのだ。もっといえば、希望の党の名どおりであって、彼女はその党首なのだ。「なぜわたしが希望して悪い?私は一番いいものを欲しいのよ」とぐらい考えているだけなのだ。まわりを取り巻く女性も「そうよ!そうよ!」と賛同するわけだ。希望や目標と、どうするかの政策は基本的に違うものだが、その違いが分からない。自ら行動しないことが原則となっている、女性というジェンダーはその経験がないから、違いもわからない。
 こうした女性、あなたの隣にいて、長年連れ添った女性に、どこかにていないだろうか?
 小池の都政と国政の選択も同じ。「私は国政、それも総理になりたいのだけれど、それがかなわなければ、大政党の党首、ダメなら都政、それじゃあダメなの?どうして?それが国民のためなら、いいんじゃないの?」という程度の考えだ。ひとつ付け加えると、何が国民のためか、を結論づけるのは、ほとんど悪魔の証明だから、これを論駁するのは、ほとんど不可能だろう。
 「大胆に改革する寛容保守」というのもおなじ。彼女は「改革」も欲しいし「保守」でもありたい。大胆に決断し、寛容にいいものは取り込みたい。彼女は何でも欲しいのだ。うまくいかなければ、その時点で変更し、切捨てもする。「欲張りだっていうけど、どうして、それがわるいの?」というのが小池の考えている偽らざるところだろう。
 つまり、彼女は先々のことを考えた末、先回りして戦略的に言っているのではないのだ。首班指名は「公明の山口党首がいい」と言ったり「連立のことも考える」といったり、「政権選択の選挙」と言ったり。しかし、これは、彼女のそのときそのときの希望であるにとどまらず、状況次第でそうなるのではないか、と自身考えているだけなのだ。決して、戦略的に言っているわけではなく、彼女の本音の一部なのだろう。
 都知事にいる、問題が出る、そこでアウフヘーベンして希望の党をつくる首班で出たいが、それが時期でないなら、さらにアウフヘーベンして(修正して)、衆院補選で国政に出る。いろんな方法で過去を否定(止揚)しアウフヘーベンすればいい。彼女は決して頭がいいわけでも、政治勘が働くわけではない。だれも考えない型紙破りで、いろいろな出世の道筋を素直に、女性としての本能で考えているだけなのだ。
 ただし、ひとつだけ付言しておくと、彼女のカエルのツラにションベンの鉄面皮は、ほとんどサイコパスと言っていいだろう。女の論理+サイコパスといったところか。

 ともあれ、彼女を論評する側の論理は、ご承知のとおり、まったく噛み合うわけがない。小池はそういう論評に「あんたがたこそ、しがらみよ。リセットして、大胆に改革していきましょう」というぐらいに、切り返すだろう。行動に責任を持つ必要のない女性の典型的な言辞である。
 これは何を意味しているか?都民ファーストにあれだけの女性票が入ったことをよく考えて欲しい。そして、あなたの隣にいる糟糠の妻をよく観察してほしい。あるいは、飲み会で議論する女子会常連の女性を見て欲しい。
 彼女たちは、希望に飢えている。私はいいものは何でもほしい。何でも取り入れればいい、それが何故悪いの?これは小池の発想そのものだ。同じ波長で、互いに共鳴しあっている。
 要するに、小池は日本の女性そのもの、といって良い。もっとも、日本にかぎらず、女性一般がそうとも言えるが・・。
 わたしは、女性がダメだといっているんではない。なぜなら、冒頭掲げたように、すばらしい仕事をしている女性の論客もいる。つまり、小池に現れていることは、現代の社会と、女性という存在とのあいだに起きている、一種のボタンの掛け違えのようなものだと思う。
 わたしは、この原因は女性にあるのではなく、婚姻制度など社会組織の側にあると思う。今の男女のあり方は、私見では100~200年ぐらい経つと変わらざるを得ないと、思っている。そのことはまた改めて論じる機会があると思うが、現在起きている小池現象は男性、女性の関係が、浮き足立った世界での、ひとつの象徴的な現象と私は考えている。いずれにせよ、よくも悪くも、女性が世の中を変えていく。本音を言うと、私はそういう彼女たちとかかわる場所にいたくない。わたしは、そのような問題を解決する器ではない。








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 最近、パンプで発行した「クライマーズ・バイブル」を買ってきた。じつはこのブログ、ずいぶん前から考えていたのだが、金にもならないし、おつむを動かすことより、身体を動かすことのほうが大好きなクライマーに、理解できるかどうか分からないし、オリンピックを前にブームになっているクライミングに、躍起になっている業界各氏に、冷や水を浴びせる結果になるし、一般的な風潮とちがう下手なことをいえば、変な目で見られかねない。
 そんなこんなで、うっちゃっていたわけだ。ただ、この本の紹介で目次に、「フォーム」という言葉が出たので、すこし驚いて、このブログもそれに触発されてスタートし、前後して、この本を買ってみたわけだ。
 いままでクライミングでは、ムーブという言葉、概念設定ですべて説明され、クライマーもそれで納得していた。わたしはひそかに、10年も前から、これは間違いだと思っていた。いま、クライミングで一般に使われているムーブという言葉は、手順から、テクニックから、基本的な身のこなしから、いわばクライミングの際のすべての動きを説明するものとなっている。
 わたしはときどき皮肉交じりに言うのだが、これはいわば女性が使う「カワイイ」という言葉と変わりがない。なんでもかんでも、「カワイイ」というのと同じく「ムーブ」だと言っている。語彙の不足というか、精神的な怠惰の現象だ。
 もっとも、人は現実をどのように表現しても、構わない。しかし、「カワイイ」などという、その表現、その把握で、思考がその瞬間にストップする。それ以上は、思考は進まない、そこで思考停止で、そのことでかえって安心しているような有様だ。口に出すと冷たい眼で見られるので、めったなことはいえないのだが、クライマーってのは、おんな、こどもと精神状態は変わらんな~と、思っていた。
 わたしがこの「ムーブ」という概念に、アンチテーゼのように考えていた概念が「フォーム」という概念で、この「クライマーズ・バイブル」が取り上げるまでは、寡聞にして、どの教本でも見たことがなかったし、聞いたこともなかった。猫も杓子も「ムーブ」だった。それゆえに驚いたのだ。
 その意味では、この本は新しい概念に気づいて、取り入れたということで、私はそれだけで、ず~つと思考と理論がワンパターンに陥って、停滞していたクライミングの世界において、理論面でひとつの功績ではないか、と思っている。理論というのは、むずかしいことを言うのではない、あたらしい別の見方で現実を説明し、取り組みを前に進めることだ。
 ただ、購入してがっかりした。概念思考は、まるでとばぐちにしか立っていない。ムーブという概念は、身体の動きを細分化して説明する方法なのだが、この細分化法をボディの動きでやってみようという程度のもので、ようするに、手足の動き以外に、ボディの動きを、単に並列化して並べただけ。実際のクライミングの際の、身体の動きに踏み込んでいないし、全体を説明するダイナミズムに欠けている。
 個々のテクニックは、いろいろな教本が、いやというほど説明している。いや、人と同じ説明を繰り返しに繰り返し、よくあきもせず、それでいいと思っている、そんな指導者の神経が理解できない。この本も、錚々たるクライマーが集って、討議した結果だそうだ。かれらはいったい何をみているのか、理解に苦しむ。クライマーってその程度のおつむなのかな、と長年ひとりごちていたわけだ。
 このブログは、フォームという概念も含めて、クライミングを全体として捉えようというものである。というより、基本の捉え方を、いま少し根本的に、転換しようというものだ。すでに書き溜めているものもあるが、「分からない人たちに言っても、嫌われるだけ」という思いで、気持ちの萎えることも多く、完成までに、何ヶ月かかるか分からない。まあ、とにかくスタートしたのだ。このブログは、あくまで話をまとめるための下書き。きょうHPを開設したが、完成原稿は、別途、そちらで発表していく。
 
 コイケ劇場が大失速。すくなくともこれで、日本は救われそうだ。日本が緑のタヌキに化かされる危険は遠のきつつある。日本国民も、それほどお馬鹿さんではないようだ。よかった。
 コイケ劇場の第二幕は、田舎芝居の店じまい。まず、希望の党の惨敗から、選挙後におこる野望の党ならぬ野合の党のハチャメチャ劇。責任追及、離党続出、新代表と新執行部の選出。コイケの除名、退陣をふくめた、若狭、細野、長島、松原、玄場のお笑いコント。前原がそのお笑い衆にくわわるか?
 そして第3幕は東京都の混乱の後始末。緑のタヌキが演じる都議会ハチャメチャ劇。都議会シアターはオリンピックが最後の仕上げとなる。もしかしたら、途中で緑のタヌキはどろん。木の葉の小判をつかまされる後継都知事は誰になるのか、これも見もの。

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 コイケがついに衆院選不出馬になった。この女の政界引退までの一里塚といったところか?
 オリンピックはどうなるか?豊洲市場はどうするか?都民ファーストでは何がはじまるか?これからは、負のコイケ劇場が始まりそうだ?
 コイケを選んだ人たち、中でも女性たちはやりきれないだろう。でもしっかり現実をとらえ、自分が投じた一票の重みを、その結果をかみ締めて欲しい。
 これは、無責任、ムード投票に大きな教訓となるはずだ。オリンピックはコケレば良い。豊洲も築地も生かして、借金をふやし、中国並みのゴーストタウンにすれば良い。それで、都民の目が覚めるなら。
 ただし、観客が去っていき、コイケ劇場のカンバンがおろされるまで、後何百億円必要なのだろうか?それもこれも、選挙民が目を覚ますためのコストなのだろう。
 もちろん、コイケのことだから、補選を通して、国政にトラバーユ、逃げる算段をもう始めていることだろう。しかし、希望の党は、選挙が終われば、代表選びでコイケは追い込まれる。そうでないまでも、これまた泥舟になるので、脱出するネズミどもが船底で待ち構えている。
 またまた政界再編、日本の政治がまともになるには、あとどのぐらいの歳月がかかることやら・・。

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 小池百合子のことを各メディア、ネットがいろいろ論評している。いわく、論理の辻褄があわない、思い付きだ、無責任だ、場当たりだ、中味がからっぽ・・などなど。
 しかしどうも、どの論評も、女性というものがどういうものか、てんで分かっていない。小池百合子はまさしく典型的な女性であり、発想法、決断の仕方、など女性そのものであって、なにも驚くに当たらない。タイプも状況もまったく違うわけだが、不倫問題で政界からトンズラした、山尾しおりと変わらない。
 まさしく女性が、彼女たちにふさわしくない場所に出てきて、彼女たちが信じる行動をして、自身がどのように振舞えばいいのか分からず、破綻しているのだが、彼女たち自身、場違いのところにいるため、そのこと自体、ピンときていないだけなのだ。
 女性の中にも、有本香、福島香織、河添恵子など、やっている仕事内容、その主張に舌をまくような人もいる。

 話はもどるが、小池は「選挙の結果を見て、首班指名はきめる」という。これは、常識では考えられない答弁で、並み居る評論家も、ここまで次元が落ちると、どう論評していいか苦しんでいる。
 彼女の言うことは、すべてこの伝で、政治とは何か、公約とはなにか、改革とはなにか、民主主義はなにかなど、原点の原点から解きほぐさねば答えられないもので、論理のしがらみに前提を持つ者(ふつう皆がそうだ)にとっては、にわかに反論できないものとなっている。
 しかし、考えてほしい、選挙でどのような結果が出るか分からない。過半数を超えるか、それとも、そこまで行かないものの、キャスティングボードを握るか、はたまた惨敗して、箸にも棒にもかからないことになるか、今の段階では分からない。
 それを、選挙の結果が出てから判断したいというのは、彼女個人に限って言えば理が通っている。彼女は一番いい選択肢を、状況にあわせて選びたいと言っているわけで、それに対して「なにか文句ある?」とでも彼女自身は思っているだろう。
 公約の内容も同じだ、「満員電車ゼロ」、「原発ゼロ」、「消費税凍結」など、ゼロ公約自体、彼女の希望なのだ。もっといえば、希望の党の名どおりであって、彼女はその党首なのだ。「なぜわたしが希望して悪い?私は一番いいものを欲しいのよ」とぐらい考えているだけなのだ。まわりを取り巻く女性も「そうよ!そうよ!」と賛同するわけだ。希望や目標と、どうするかの政策は基本的に違うものだが、その違いが分からない。自ら行動しないことが原則となっている、女性というジェンダーはその経験がないから、違いもわからない。
 こうした女性、あなたの隣にいて、長年連れ添った女性に、どこかにていないだろうか?
 小池の都政と国政の選択も同じ。「私は国政、それも総理になりたいのだけれど、それがかなわなければ、大政党の党首、ダメなら都政、それじゃあダメなの?どうして?それが国民のためなら、いいんじゃないの?」という程度の考えだ。ひとつ付け加えると、何が国民のためか、を結論づけるのは、ほとんど悪魔の証明だから、これを論駁するのは、ほとんど不可能だろう。
 「大胆に改革する寛容保守」というのもおなじ。彼女は「改革」も欲しいし「保守」でもありたい。大胆に決断し、寛容にいいものは取り込みたい。彼女は何でも欲しいのだ。うまくいかなければ、その時点で変更し、切捨てもする。「欲張りだっていうけど、どうして、それがわるいの?」というのが小池の考えている偽らざるところだろう。
 つまり、彼女は先々のことを考えた末、先回りして戦略的に言っているのではないのだ。首班指名は「公明の山口党首がいい」と言ったり「連立のことも考える」といったり、「政権選択の選挙」と言ったり。しかし、これは、彼女のそのときそのときの希望であるにとどまらず、状況次第でそうなるのではないか、と自身考えているだけなのだ。決して、戦略的に言っているわけではなく、彼女の本音の一部なのだろう。
 都知事にいる、問題が出る、そこでアウフヘーベンして希望の党をつくる首班で出たいが、それが時期でないなら、さらにアウフヘーベンして(修正して)、衆院補選で国政に出る。いろんな方法で過去を否定(止揚)しアウフヘーベンすればいい。彼女は決して頭がいいわけでも、政治勘が働くわけではない。だれも考えない型紙破りで、いろいろな出世の道筋を素直に、女性としての本能で考えているだけなのだ。
 ただし、ひとつだけ付言しておくと、彼女のカエルのツラにションベンの鉄面皮は、ほとんどサイコパスと言っていいだろう。女の論理+サイコパスといったところか。

 ともあれ、彼女を論評する側の論理は、ご承知のとおり、まったく噛み合うわけがない。小池はそういう論評に「あんたがたこそ、しがらみよ。リセットして、大胆に改革していきましょう」というぐらいに、切り返すだろう。行動に責任を持つ必要のない女性の典型的な言辞である。
 これは何を意味しているか?都民ファーストにあれだけの女性票が入ったことをよく考えて欲しい。そして、あなたの隣にいる糟糠の妻をよく観察してほしい。あるいは、飲み会で議論する女子会常連の女性を見て欲しい。
 彼女たちは、希望に飢えている。私はいいものは何でもほしい。何でも取り入れればいい、それが何故悪いの?これは小池の発想そのものだ。同じ波長で、互いに共鳴しあっている。
 要するに、小池は日本の女性そのもの、といって良い。もっとも、日本にかぎらず、女性一般がそうとも言えるが・・。
 わたしは、女性がダメだといっているんではない。なぜなら、冒頭掲げたように、すばらしい仕事をしている女性の論客もいる。つまり、小池に現れていることは、現代の社会と、女性という存在とのあいだに起きている、一種のボタンの掛け違えのようなものだと思う。
 わたしは、この原因は女性にあるのではなく、婚姻制度など社会組織の側にあると思う。今の男女のあり方は、私見では100~200年ぐらい経つと変わらざるを得ないと、思っている。そのことはまた改めて論じる機会があると思うが、現在起きている小池現象は男性、女性の関係が、浮き足立った世界での、ひとつの象徴的な現象と私は考えている。いずれにせよ、よくも悪くも、女性が世の中を変えていく。本音を言うと、私はそういう彼女たちとかかわる場所にいたくない。わたしは、そのような問題を解決する器ではない。








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 最近、パンプで発行した「クライマーズ・バイブル」を買ってきた。じつはこのブログ、ずいぶん前から考えていたのだが、金にもならないし、おつむを動かすことより、身体を動かすことのほうが大好きなクライマーに、理解できるかどうか分からないし、オリンピックを前にブームになっているクライミングに、躍起になっている業界各氏に、冷や水を浴びせる結果になるし、一般的な風潮とちがう下手なことをいえば、変な目で見られかねない。
 そんなこんなで、うっちゃっていたわけだ。ただ、この本の紹介で目次に、「フォーム」という言葉が出たので、すこし驚いて、このブログもそれに触発されてスタートし、前後して、この本を買ってみたわけだ。
 いままでクライミングでは、ムーブという言葉、概念設定ですべて説明され、クライマーもそれで納得していた。わたしはひそかに、10年も前から、これは間違いだと思っていた。いま、クライミングで一般に使われているムーブという言葉は、手順から、テクニックから、基本的な身のこなしから、いわばクライミングの際のすべての動きを説明するものとなっている。
 わたしはときどき皮肉交じりに言うのだが、これはいわば女性が使う「カワイイ」という言葉と変わりがない。なんでもかんでも、「カワイイ」というのと同じく「ムーブ」だと言っている。語彙の不足というか、精神的な怠惰の現象だ。
 もっとも、人は現実をどのように表現しても、構わない。しかし、「カワイイ」などという、その表現、その把握で、思考がその瞬間にストップする。それ以上は、思考は進まない、そこで思考停止で、そのことでかえって安心しているような有様だ。口に出すと冷たい眼で見られるので、めったなことはいえないのだが、クライマーってのは、おんな、こどもと精神状態は変わらんな~と、思っていた。
 わたしがこの「ムーブ」という概念に、アンチテーゼのように考えていた概念が「フォーム」という概念で、この「クライマーズ・バイブル」が取り上げるまでは、寡聞にして、どの教本でも見たことがなかったし、聞いたこともなかった。猫も杓子も「ムーブ」だった。それゆえに驚いたのだ。

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 財務省の事務次官がテレ朝記者に対するセクハラ問題で辞任した。これに対する見方はいろいろあって面白い。どれも事実とも言えるし、そうでないとも言える。真相はにわかには判断できないというのが本当で、芥川龍之介の短編「藪の中」を思い出した。
 「藪の中」のストーリーは、もう忘れてしまったが、殺人と強姦(時代は戦国時代なので、強姦という言い方が妥当かどうか不明だが・・)がテーマで、罪に問われた男と女の言い分がまるっきりアベコベで、真相は「藪の中」、世界の構造はこんな風に出来ていると、学生時代考えたことを思い出す。
 それはともかく、財務省とテレ朝のこの事件、セクハラというのが通り相場だが、背景にハニトラの要素もあるし、パワハラも絡んでいる。要するに、女性はそのような複雑な状況のなかで生きていて、結果、精神構造、身の処し方も複雑にならざるを得ないのだろう。そう考えてみると、気の毒な存在ではある。
 私の考えたこの事件のストーリーだが、財務省事務次官とテレ朝女性記者は1年以上、8回も会っている。それを今さらセクハラというのは解せない。つまり、テレ朝記者はハニトラ絡みの取材で、次官を籠絡しようとした。だから記者の方も最初はノリノリ。テープはいざというときの取材内容に関する証拠物なので、最初から録音を取っていた。
 しかし、次官の方もハニトラで押さえ込まれるほどのヤワではない。記者の方はセクハラの反撃を受けてしまった。これは人生経験の差なのだろう。つまり、問題のテープは、財務省のリーク情報の証拠物から、セクハラ事実の証拠物に、性格が変わってしまった。
 だから、記者が新潮社に持ち込んだテープはつぎはぎにならざるを得ない。取材対象者の承諾を得ない、ほとんど盗聴まがいの目的のテープの部分と、セクハラの反撃を受けてしまったテープの部分である。もちろん、この2つは交錯していて、つぎはぎにならざるを得ない。
 いっぽう、テレ朝上司はパワハラ気味に、記者をハニトラまがいの取材に追い込み、そのことは記者は毎度のことなので、取材を続けた。そのうち、記者がセクハラに追い込まれて、社に泣きついたわけだが、ハニトラ取材が半ば常識のテレビ局では、「なにを今さら」と、記者の尻を引っぱたいたというわけ。テレビ局としてはハニトラそそのかし、セクハラ無視という2つのパワハラをしたわけだ。結果、男を舐めきっていた記者が週刊誌に駆け込んだ、というわけ。
 これ、誰が悪いんだと思う。めくそ、はなくその類だが、個人のレベルを超えて、見てみぬ振りをし、不正を状態的な業務活動としてきたテレ朝がもっとも悪いんじゃなかろうか?
 フリークライミング/アルパインクライミング/ボルダリングのそれぞれのクライミングの身体のあり方について、以下に仕分けし、考察してみよう。
 まず、アルパインクライミング。このクライミングで前提条件になっているのは、安全性であり、端的に言うと、落ちないことが重視される。事故による危険の回避が何よりの前提であり、ピンとピンとの間隔も長い。目的は頂上を目指すことであり、スタイルよりも、山行の達成および安全性が重視される。極端に言えば、安全に目標を達成できれば、スタイルはとくには問われない。しかし、クライミングのスタイル、ないしフォームは安全性、持続性の要因から、結果的に一定のものに収斂することとなる。
 こういうアルパインクライミングの大前提から、このクライミングのスタイルは落ちることを極力排すると同時に、荷物の携行、さらにクライミングを長時間、持続できる身体の動きが前提となる。
 具体的に言うと、伝統的な3点支持である。つまり、3点で支持することで、倒れないようにし、重い荷物を両足で支えられる。3点支持の身体の動きを要約すると、支持数を増やすことで、安定性を増やすことのほか、両足のあいだに身体の重心をおき、これで倒れないようにしている。さらに、進む際も手足、3点のいずれか1点を移動する方法を取ることで、移動の際の安定性を確保している。
 アルパインでは、フォームないしスタイルとして、この3点支持のが主張されている。この方法が金科玉条のように言われ、あらゆるクライミングの基本とされてきた。ところが、フリークライミングの登場で、この基本的な概念はくつがえされている。もちろん3点支持は、ほぼアルパインでは基本といえるだろう。しかし、あたらしいクライミングのジャンルではこのことにこだわらなくなってきた。
 そのことはそれでいい。新しいぶどう酒には新しい皮袋が必要だ。しかし、ここで見落とされているのは、人間の身体というものは最初に覚えた動作が、知らず知らずに刷りこまれる、ということがある。後に触れることになるが、このことがアルパインクライマーの多くの人が、フリーやボルダーに弱いベースを作っている。ある動作のスタイルが刷りこまれると、他の類似の動作には阻害要因として働く場合が多い。もちろん、器用にスイッチできる人もなかにいないことはないが、あくまで少数派だろう。
 ともかく、ボルダー、フリー、アルパインの向き不向きを、持久力の差だといって説明している、技術書をよく見かける。この主張の半分は当たっている(いや、3割ぐらいだろう)が、彼らが見逃しているのは、クライマーがどのクライミングの身体の動きに習熟し、その結果、どの程度、刷りこまれたフォームが他の動きを阻害しているか、であり、それに関して、まったく気づいていないことであろう。
 つぎにフリーの体の動きを、おもに、アルパインと比べて考察してみよう。これを見れば、互いの動きが阻害要因として働くことの理解がすこし進むだろう。
 フリーで一般に推奨されているからだの動きは、2点支持、正対とカウンターで主に説明できる。まず2点支持について、なぜそうなのかは後述するが、荷物をもたない、登る距離が短い、ホールド、スタンスに信頼感があり、ルートが比較的整備されている、などの理由から、安全性、持続性への配慮が比較的軽くてすむためである。とくにインドアの場合、この傾向が強くなる。
 2点支持の背景にある必然性は、バランスコントロールによる省力化である。後述するが、2点支持は安全性が確認されれば、一定の条件の下では、省力的でパワーをセーブできる。
 正対とカウンターについては、身体の動きの幅を広げるコンセプト(概念)である。アルパインはほぼ、正対のみでクライミングする。カウンターは、実は身体のバランスを意図的に崩すものであり、このフォームが崩れると、落下する危険性を内包しているものである。そのため、安全性をなにより重視するアルパインでは、どうしても消極的となる。しかし、フリーの場合は、環境が一定程度緩やかで、安全性も一定程度、確認できるため、難度のある壁を克服するため、動きの幅を広げることができるカウンターのフォームを積極的に採用することになる。要するに落下してもいいので、その危険を内包しているカウンターや2点支持を積極的に採用し、それによって身体の動きを広げ、難度のある壁を登ろうということである。結果として、カウンターと2点支持を前提にして、フォームづくりをすることになる。
 最後にボルダリングの身体の動きはどのようにとらえればいいだろうか?ボルダリングの教本を見れば分かることだが、ボルダリングにはフォームとかスタイルといった身体の動きの基本というものがない。
 あるのは、ムーブという身体の動きのさまざまなテクニックである(なお、この本ではクライミングの身体の動きをフォームとムーブという2つのコンセプトに分類している。従来のように、なにもかもムーブという言葉で説明するより、この2つの概念で捉える方が、クライミングの身体の動きを、より奥行きのあるものとして捉え、説明することができるからである)。
 ボルダリングの動きをひと言で要約すると、このクライミングのあり方自体がそうなのだが、いかに次のホールドを取るか、ということに尽きる(ゴールのホールドを取るというのも同じ)。
 安全性、持続性、省力性などは、一切考慮されていない。これがボルダリングの身体の動きの特徴であり、すべての身体の動きはパワーとテクニックに収斂する。ちなみにムーブの概念は、基本的にこのようなものであり、確かにボルダリングにもカウンターや2点支持はあるが、厳密に観察し、目的を把握すれば、これらはやはりテクニック(ムーブ)に分類され、基本動作(フォーム)にはなっていない。
 
 さてこれら3つのクライミングのジャンルを比べたわけだが、ここまでは少し観察すれば、誰にでも特徴を把握でき、理解可能で、教本としては、目標に沿ってトレーニングすればいいということになる。しかし、それはあくまで、第3者的な他人事の把握であり、実際にクライミングを行おうとするクライマーの身体の動きに則しておらず、クライミングを実践する者の立場に立っているとは言いがたい。
 クライマーの身体も、運動をつかさどる脳もひとつであり、ひとつの方法をインプットしたら、多様なジャンルのその通りに動くというものではないからだ。結論からいうと、各ジャンルの身体の動きは、そのジャンルに適したものになっていて、他のジャンルに必ずしも適しない場合がある。いやそれどころか、特定の身体の動きが、あるジャンルに特化すればするほど、他のジャンルのクライミングには不適当で、しばしば阻害要因として働く場合があるということだ。
  クライミングのほぼすべての技術教本は、、このことを完全に見逃している。ごく簡単な動きからこのことを説明してみよう。たとえば2点支持に対して3点支持。2点支持は3点支持に対して、ホールド、スタンスが信用できないときなどにリスクを持つ。しかし3点支持では省力面で欠点があり、難しい壁は登れない。正対に対してカウンターは、カウンターは荷重を1本足にかけ、ときに片足になるため、これも危険性をはらんだものである。
 要するにひとつのジャンルでは一定の登り方がセオリーとされていて、またそれは根拠のあるものであり、クライマーはその方法を学んで壁を登る。しかし、それは他のジャンルの登りには、必ずしも通用しないどころか、ときに危険性を生み出し、逆の場合は省力化の妨げとなる。
 こうした動きの違いは、以上のごく明瞭なものにとどまらない。たとえば、インドアでは足を高く上げることが、困難な壁を登る際のひとつのノウハウとされる。そして、ボルダラーやインドアクライマーが外岩でも、足を高く上げる身体の動きを見せる。しかし自然の岩では、足を引っ掛けるなど足を高く上げる動きは通用せず、岩に乗っていく足の捌きが基本となる。このように、いわゆるムーブの違い、フォームの違いにとどまらず、微妙なすべての動きで違いが出てくる。
 さて、それがどうした、ならば、違いも習得すればいいのではないか?というのが、一般的な意見であり、ぼんくらな考えもここまでであろう。
 問題はここからである。ひとつの身体の動きを習熟しているものが、それに類似の身体の動きも習熟し、簡単にスイッチできるでしょうか?動きが類似であればあるほど、ひとつの動きは他の動きを干渉する。足を高く上げることばかり練習しているクライマーは、細かい足の踏み替えなどの経験はすくないし、またその練習はしない、それどころか、その種の足の捌きの難しさも知らない。
 ようするに、一定の動きの練習をしていると、それに類似の動きができなくなる。これを脳の学習で言うと、ひとつの身体の動きの習熟は、他の動きを避ける携行を生み出し、また他の動きの習熟の阻害要因となる場合が多い。
 アルパインクライマーが、きれいなカウンタームーブは苦手であり、すくなくとも、習熟に時間がかかる。それがなぜか、というと身体のバランスを崩すことを極力避けて登る経験を積んでいるため、故意にバランスを崩すというカウンターのムーブにどうしても拒否反応が出るためだ。
 ようするに、これはムーブという技術レベルの問題でなく、身体の基本的なバランス感覚、危険感覚によるものであり、これを克服するには相当の時間が必要になる。それはいままで積み上げてきた身体の動き(動きの経験)をまずリセットしなくてはならないからで、このリセットはしばしば困難を伴うためだ。
 まったくクライミングを知らないクライマーの方が、何十年も年季をつんだベテランクライマーより、カウンターが上手なのも、習熟が早いのもこのためであり、ましてやランジ、クロスムーブなども新しいジャンルのムーブなどさっさと習得する。要するに、人間の身体の動きは一定のパターンに慣れる傾向があり、これらの固まってしまった身体の動きの集積(コンプレックス)を、われわれは「クセ」と通称しているわけだ。
 このことによって、ボルダラーがルートを登れなったり、その逆があったり、ということがおきる。最後に、互いに阻害要因として働いている、この身体のさまざまな動きをコントロールし、適宜、状況に応じてチョイスするには相当の時間が必要だ。また、こうしたスイッチ、チョイスの能力は個人差があり、比較的早期に出来るようになるひとと、時間のかかる人がいる。そして、すこし皮肉的なことを言うと、こうした人間の動きの傾向から、練習すればするほど、妙な癖がつくということがある。簡単にいうと、正対の動きを習熟すればするほど、カウンターは登れなくなる。もう一歩踏み込んで言うと、スラブをやればやるほど、ハングは下手になる。どうしてかと言うと、身体の動き、捌きがあべこべだからだ。したっがって、練習も見極めが肝心で、やみくもにやれば良いというものではない。

 ちなみに女性記者の心理状態を言うと、どこからどこまでが、自分が仕組んだハニトラで、反撃を受けたセクハラなのか、さらに取材活動もどこまでテレビ局のパワハラで、どこまでが自身が自主的に仕掛けた行為なのか、分からないだろう。オンナとはそういうふうに厄介なものである。
 その意味では、この本は新しい概念に気づいて、取り入れたということで、私はそれだけで、ず~つと思考と理論がワンパターンに陥って、停滞していたクライミングの世界において、理論面でひとつの功績ではないか、と思っている。理論というのは、むずかしいことを言うのではない、あたらしい別の見方で現実を説明し、取り組みを前に進めることだ。
 ただ、購入してがっかりした。概念思考は、まるでとばぐちにしか立っていない。ムーブという概念は、身体の動きを細分化して説明する方法なのだが、この細分化法をボディの動きでやってみようという程度のもので、ようするに、手足の動き以外に、ボディの動きを、単に並列化して並べただけ。実際のクライミングの際の、身体の動きに踏み込んでいないし、全体を説明するダイナミズムに欠けている。
 個々のテクニックは、いろいろな教本が、いやというほど説明している。いや、人と同じ説明を繰り返しに繰り返し、よくあきもせず、それでいいと思っている、そんな指導者の神経が理解できない。この本も、錚々たるクライマーが集って、討議した結果だそうだ。かれらはいったい何をみているのか、理解に苦しむ。クライマーってその程度のおつむなのかな、と長年ひとりごちていたわけだ。
 このブログは、フォームという概念も含めて、クライミングを全体として捉えようというものである。というより、基本の捉え方を、いま少し根本的に、転換しようというものだ。すでに書き溜めているものもあるが、「分からない人たちに言っても、嫌われるだけ」という思いで、気持ちの萎えることも多く、完成までに、何ヶ月かかるか分からない。まあ、とにかくスタートしたのだ。このブログは、あくまで話をまとめるための下書き。きょうHPを開設したが、完成原稿は、別途、そちらで発表していく。
 
この草稿、「クライミング・イデオロギー」としました。クライミング・テクノロジーではありません。クライミングは新しいスポーツで、ジャンルなども含めて、日々変化しています。10年前、20年前とくらべると、内容も考え方も違ってきています。しかし、テクニックは進化しても、新しいがゆえでしょうか、スポーツ自体がどういうものか、という基本的な考察が抜け落ちています。スポーツはテクニックさえ進歩すればいい、という意見もあるでしょうが、そのテクニックを進歩させるために、このスポーツをどのように捉えるか、という前提なくしては、進歩もないと思います。
 現実にクライミングの現場では、上達のステップやトレーニングにさまざまな混乱が見られます。身体能力に優れたクライマーはそれでも、問題を乗り越えていくわけですが、そうでない人たちの中には、行き詰ってしまったり、迷い道に入り込んでしまっているクライマーも少なくありません。そうした混乱に無理解な指導者やジムが、その自覚もなく混乱に手を貸してしまっている、ということであれば、問題でしょう。
 私は、これはクライミングの基本的な把握が未成熟であるためと思えて仕方がないのです。基本的な把握が出来れば、その把握の下に、テクニックを積み重ねていけばいいのです。しかし間違っている場所に、いくらテクニックを積み重ねても、それは崩れるだけでしょう。すくなくとも回り道はなるべくしないようにしたいものです。
 そういう趣旨から、この草稿をクライミング・テクニックならぬクライミング・イデオロギーとした所以です。イデオロギーというのは、英語ではアイデオロジー、社会や物事に対する一定の立場からの考え方、というほどの意味です。
 それはクライミング理論なのか、というと、ちょっと違います。クライミング理論というと、クライミングという確固とした対象があって、それのための理論ということですよね。しかし、現状でクライミングという確固とした対象がありますか?ジャンルが多いうえに、あたらしいジャンルが出てきています。今後も変化する可能性があります。それを固定したいわゆる理論で捉えることは危険です。現在の社会的状況は、ある一定の方向から捉えるしかなく、対象が変化すれば捉えなおす作業がまた必要でしょう。
 簡単に言うと、インドアのなかった時代、ルートしかなった時代、アウトドアをインドアの補助的な練習場と考えていた時代、インドアが別のスポーツとして把握されるようになった時代、ボルダーも同じ捉え方が出来ると思います。ボルダーのなかった時代、・・補助的練習と考えられた時代、・・独立したジャンルと考えられている時代・・などなどです。
 これを一律クライミングとはなんぞや、と捉えるのは危険です。すくなくとも、クライマーのあいだに、誤解や思い違いが生まれ、人によっては、何をどうすればいいのか、分からなくなるでしょう。いや、分からなくなっている、というのが、現状ではないでしょうか?
 これを現在の社会的状況から、捉えなおして、クライミングという船の針路を、定めてみようと、いうのがこの草稿の趣旨です。というより、クライミングと一括して呼べるようなものが、果たしてあるのか、とさえ思うのです。対象の分化、変化と同時に、把握も進歩し、変化してしかるべき、イデオロギーの趣旨はそこにあります。
 イデオロギーとはこのように、一定の立場からの考え方、説明の方法、という意味ですが、一方で、偏った考え方や主張にたいする皮肉を帯びた呼称という意味もあります。私のこの草稿のタイトルの意味は、このスポーツの考え方は、このスポーツが変化する過程で、随時とらえなおさなければならない、という趣旨なのですが、自嘲的に、あるいは本来的にでもあるのですが、新しいイデオロギーが出てくれば、古い器は捨てていかなくてはならない、そういう意味もこめた命名です。

ピョンチャン五輪の日本地図

 ピョンチャン五輪HPの世界地図に日本がない!
 それで日本政府は抗議したらしい。ネットでも大騒ぎしているらしい。

 しかし彼らの狙いは、日本の大騒ぎ、それ自体。日本が騒いでくれるのが、彼らは嬉しくててしょうがない。韓国は、もともと建国のアイデンティティがないから、こんなことでもして、自分が他国に認められているということを心の底で感じているんです。こどものイタズラの域を出ないです。

 このことが分からず、「意図的だ、けしからん」って騒いでいるのは、彼らの思うつぼ。イタズラっ子は、隣の親父が怒るのが面白くててしょうがなくて、玄関のチャイムを鳴らして逃げたり、バナナの皮を入り口に置いたり、いろいろイタズラを思いつくのです。親父が怒れば、子供が大人扱いされたと思う、それと同じです。
 今回の件でいえば、もうそのHPをそっとそのままにしておけばよかったのです。バナナの皮を、世界の人が見れば、みんな面白がるでしょう。日本人も面白がればいいのです。
 イタズラっこは親父がおこらず、笑い転げていれば、しょんぼりしてしまうものなのですよ。

 世界の動きを自分の発想法で解釈するというのは、どこの国も同じ。日本人は、「正しいこと」、「おたがいさま」、「話し合い」、「わかりあえる」、な~んていっているが、それは日本人の発想法。鏡に映した世界が、ゆがんでいたら、世界が悪いと思っているが、それは自分の鏡が自分の好みのように、ゆがんでるだけ。それぞれの国民は、みんなゆがんだ鏡で、自分と世界を映して、自分は美人なのに、なぜもてないのか悩んでいる。
 それでも、世界は共通のゆがんだ鏡をもつようになってきたけれど、あくまで近似値で、国どうし噛み合わない。そのなかで、中国と朝鮮半島の鏡のゆがみようはユニークだ。もちろん、アメリカの鏡もひんまがっているし、ドイツもひどい。
 たとえば、中国の賄賂は、歴史的なもので、国家統治の基本なのです。賄賂が不正というのは、欧米的な考え方。さらにブランドやキャラクター、技術パテントなど、中華文明をあまねく広めるのが善と考えてきた中国にとって、知的文化を世界にタダで広め、タダで拝借するのは、これ伝統。知的所有権など、欧米の金儲け主義のエゴイズムです。南京大虐殺は、虐殺が彼らの歴史だから、他国もおなじと考えているんです。
 韓国はなにしろ順序が決まらないと思考がスタートしない。みんな人間おなじ、なんていっている隣国・日本はけしからん、というぐらいにおもっている。順序を決めるために、躍起になっているだけですね。
 日本は友好、友愛、フレンドシップのイデオロギーだが、世界中だれもそれで問題が解決するなんて思っていないし、気持ちの悪い、無責任な、本当は腹黒いやつ、というぐらいに思っている。それどころか、そもそも問題なんか解決する必要などどこにあるんだろう、それより1銭でもトクすればいいと思っている。
 日本人がこのことを理解するまでは、日本人自身がいう「相互理解」は無理でしょうね。なお、この場合の「相互理解」というのは、お互い、どれほど理解し合えないか、を理解することだけどね。

 ゆがんだ鏡を持つものどうし、お前の鏡がおかしい、といっても解決しない。イタヅラをやめさせるまず第一はまずガキを喜ばさないこと。こっちも勝手に自分の鏡でものをいうこと。話が通じないと、むこうもどんな鏡をもっているのか、興味を持つものです。この親父何を考えてるのか・・そう思うものです。
 いずれにせよ、朝鮮人の話など、また、はじまった~、何をおかえししようかな~、それぐらいがちょうど、いいのです。
 

この国はもう終わるかもしれない。

 中山恭子の希望の党の入党、小池百合子の言いたい放題、やりたい放題、民進党と希望の党の合流・・無節操なことが地すべり的に起きている。もうこの国は、致命的な打撃を受けないかぎり、国民が目が覚めるのは無理だ、と言わざるをえない。この国はもう終わるのかもしれない。
  めんどりが時の声をあげると、その家はつぶれるという。レンホー、今井絵里子、山尾志桜里など、女性スキャンダルが目立つ。女性は歴史的に見て、最終的な社会的責任を持つ経験が乏しい。そのような女性が社会進出する結果の負の問題が、ここにきて頻出しているのではないかと思う。
 女性の社会進出は大いに結構だ。それによって男性の責任も軽減され、働きやすくなり、双方のパワーも噛み合って向上する。しかし、女性本人が責任の意識もなく、思いつきで動き、それをチェックする社会意識、社会構造も十分成熟しないままというのが、現在ではないだろうか?これでは、東アジアを取り巻く国難を前にして、女性によって日本は滅びるのではないか?
 これは何も、政治の世界ではない。あなたを取り巻く日常の世界でこの種のことがおこっていないか?国は外国から攻められて滅ぶのではない。内部から崩壊する。その要因はいろいろあるが、そのひとつが女性ということになることをおそれる。ポリティカルコレクトネスならぬジェンダーコレクトネスが日本の社会構造の基盤を揺るがしている面がないだろうか?本当の意味での男女同権が必要だ。

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登山と体操の間

では、クライミングがどのようなスポーツか、またどのように把握して、位置づければいいのか?結論からいうと、現在、一般にクライミングというスポーツは、身体の動きから言って、2つの方向に引き裂かれていると言える。
図のように、一方の極には登山(クライミング)があり、もう一方の極には体操(ジムナスティック)があり、各ジャンルはこの2極の間のどこかに位置づけることが出来る。
 両極のうち、まず登山の極とはどういうものだろうか?図にこれの身体の動きの要素をあげておいた。持久力、省力、ナチュラル、休息(レスティング)・・などだ。
 一方、体操の極とは、器械体操(apparatus gymnastic)をイメージすればいい。これの要素は、瞬発力、跳躍力、反射神経、身のこなし(ひねりなど)、身体の柔軟性・・・などである。
 この両極に共通するのは、バランス、筋力、保持力、タクティクス(戦術)、ルートファインディング・・などである。
 ここまでは、当たり前といえば当たり前なのだが、この両極がかならずしも協調せず、お互いに相反しあい、これらの要素がわれわれの身体の動きにおいて、たがいに互いを邪魔する阻害要因となっていることが問題なのである。
 具体的なことについて、科学的に解明すればいいのだが、複雑に絡み合った要素を解明するのは困難であり、私にはその力もない。しかし、常識と経験があれば、それは理解できる。いくつかの例をあげれば、私の言わんとするところは、クライミングに少し接したことのある人なら、理解できるだろう。

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保守と革新

 保守に対して革新という対置の概念がある。保守というのは、古き良きものを守ろうという考え、一方、革新というのは、古くて時代遅れになったものを廃して、新しい世界を作ろうという考え方なのだろう。革新と同じポジションにある考えとして、進歩という概念がある。
 以上がごく一般的な見方だと思うが、この説明で見ると、どうしても革新とか進歩の方が、かっこ良くて、保守の方に分がない。実際、革新は進歩であるということだが、それでは保守は退歩なのか、現状維持なのか、ということになる。
 歴史的に、近代化以前は、社会を近代化に進むために、革新という考えが有効だった。古いしきたりや、人間を縛っているさまざまな制約を取り払い、だれでも自由で能力を発揮できる世界を構築するために、古い衣を脱ぎ捨てる方向性は必要だった。
 しかし、この保守=革新という対置概念が、現代も有効かといえば、そうでなくなりつつある。これは、どうも近代化以前の概念設定であると考えざるをえない。
 実際のところ、革新と言っても、現実遊離の政策であったり、国民全体の活性化を損なうものであったりする。さらに、きれいごとを並べて、現実に埋没し、結果、何もしない、あるいは人気取り、ばら撒き、あるいは一定の組織や団体に利する政策であったりする。
 こうなってくると、革新をいいながら、既得権の維持、人気取り、つまり保守よりもさらに保守なる革新、という逆転現象も起きてくる。反対に、グローバリズムのように、すべての障壁を取り除き、自由を拡大することで、一定の層に利す結果を生み、結果、世界の自由を制約するということも起きてくる。そうなると、制約強化が、人間の自由を担保するものという、今までの常識とはあべこべの話になってくる。
 実際、人間の自由を解放することを目的とすると自称する、共産主義がもっとも人間性を抑圧するイデオロギーといえわけで、こうなると、何が革新か、何が進歩か、はたまた何が保守かということは簡単に言えなくなる。
 それで、なぜこうした状況になっているか、といえば、保守=革新という対置概念自体が時代遅れになっていて、現実世界を説明できるものではないということでないだろうか?左翼=右翼という言い方も、これと同じだろう。左翼でも、右翼でも、国民に利するものであれば、其れでいいのである。
 ともかく、こうした保守=革新という対置概念自体を洗いなおす時代が到来していることは事実だろう。
 







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