ボルダリングブームで、ボルダージムが乱立している今日この頃だが、このルート設定、すこし身体能力がある若者なら、1-2年の経験でできる。実際にインストラクターの経験が2年というボルダージムもあり、そんなにお手軽なんだ、と驚く場合もある。
もちろんベテランの設定した好ルートもあるが、違いを見分けるのは、かなり登りこんだクライマーでないと難しい。ビギナー相手なら、簡単に誤魔化せる。
ルートは難しいものを作ろうと思えば、実にかんたんに出来る。安易なルート作りの極意をあげると、まず第一がホールドを遠く設定するという方法。このようなルートは、リーチものといわれるわけだが、背丈やリーチのあるもの勝ちという設定で、手が届く者と届かない者で、決定的な差が出る。
次に安易に作れるのは、ホールドを小さくするとか、つかみにくいものを選ぶ方法。まず作ってみて、やさしいなと思ったら、悪いホールドを持ってくる方法だ。
最後が手足の位置を狭くしたり、足を高く上げるようにする方法。身体の柔軟性のある者には有利だが、そうでない者は、まるで出来ない。
もうひとつは、思い切り力が必要な設定。ハングでぶらさがる設定にするなどする。いずれにせよ、これらの方法が各ジムでは、実に安易に設定に使われている。
こうしたジムでは要するに、力比べ、柔軟度比べをやっているようなものである。トレーニングと割り切ればいいけれど、こういうジムに行っていると、クライミングって、要するに力比べかと勘違いしてしまう。
では、どういうルート設定がいいのだろうか?まず言えるのは、お手軽設定ルートの反対を考えればいい。ホールドは誰にも届くけれど、届いただけでは登れないというルートだ。
そして、ホールドはそこそこいいのだが、どう使っていいかわからない、使い方に苦慮するルートだ。そして、極端な柔軟性を問わないが、それでも解決しないルートだ。
そして、これらの前に、ちょっと見ただけでは解決ムーブが見つからないルートだ。頭をひねって、ああでもない、こうでもない、と頭をひねるルートがやはり最高だろう。ようするにこういうルートは、人間の身体の動きの常識に挑戦しているとさえ言える。
よく見かけるのが、手順もなにも見ただけで分かるルート。それにトライしている連中というのは、一種の筋トレで、身体の動きを繰り返し試しているだけ。言ってしまえば、クライマーのおつむのレベルはその程度だけれど・・。
ボルダーの醍醐味は、やはり身体全体の動き、技として、課題を提出しているかだろう。「このような動きができますか?」「どのようにして手足をさばいて、課題を解決しますか?」・・こういうことを、チャレンジするクライマーに問いかけているルートを”良いルート”というのだろう。
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開設日: 2017/9/17(日)
ほとんど1年ぶりのブログ更新。今回のテーマもオンナ、どうもオンナには幼児体験からの怨念があるみたいだ。
財務省の事務次官がテレ朝記者に対するセクハラ問題で辞任した。これに対する見方はいろいろあって面白い。どれも事実とも言えるし、そうでないとも言える。真相はにわかには判断できないというのが本当で、芥川龍之介の短編「藪の中」を思い出した。
「藪の中」のストーリーは、もう忘れてしまったが、殺人と強姦(時代は戦国時代なので、強姦という言い方が妥当かどうか不明だが・・)がテーマで、罪に問われた男と女の言い分がまるっきりアベコベで、真相は「藪の中」、世界の構造はこんな風に出来ていると、学生時代考えたことを思い出す。
それはともかく、財務省とテレ朝のこの事件、セクハラというのが通り相場だが、背景にハニトラの要素もあるし、パワハラも絡んでいる。要するに、女性はそのような複雑な状況のなかで生きていて、結果、精神構造、身の処し方も複雑にならざるを得ないのだろう。そう考えてみると、気の毒な存在ではある。
私の考えたこの事件のストーリーだが、財務省事務次官とテレ朝女性記者は1年以上、8回も会っている。それを今さらセクハラというのは解せない。つまり、テレ朝記者はハニトラ絡みの取材で、次官を籠絡しようとした。だから記者の方も最初はノリノリ。テープはいざというときの取材内容に関する証拠物なので、最初から録音を取っていた。
しかし、次官の方もハニトラで押さえ込まれるほどのヤワではない。記者の方はセクハラの反撃を受けてしまった。これは人生経験の差なのだろう。つまり、問題のテープは、財務省のリーク情報の証拠物から、セクハラ事実の証拠物に、性格が変わってしまった。
だから、記者が新潮社に持ち込んだテープはつぎはぎにならざるを得ない。取材対象者の承諾を得ない、ほとんど盗聴まがいの目的のテープの部分と、セクハラの反撃を受けてしまったテープの部分である。もちろん、この2つは交錯していて、つぎはぎにならざるを得ない。
いっぽう、テレ朝上司はパワハラ気味に、記者をハニトラまがいの取材に追い込み、そのことは記者は毎度のことなので、取材を続けた。そのうち、記者がセクハラに追い込まれて、社に泣きついたわけだが、ハニトラ取材が半ば常識のテレビ局では、「なにを今さら」と、記者の尻を引っぱたいたというわけ。テレビ局としてはハニトラそそのかし、セクハラ無視という2つのパワハラをしたわけだ。結果、男を舐めきっていた記者が週刊誌に駆け込んだ、というわけ。
これ、誰が悪いんだと思う。めくそ、はなくその類だが、個人のレベルを超えて、見てみぬ振りをし、不正を状態的な業務活動としてきたテレ朝がもっとも悪いんじゃなかろうか?
ちなみに女性記者の心理状態を言うと、どこからどこまでが、自分が仕組んだハニトラで、反撃を受けたセクハラなのか、さらに取材活動もどこまでテレビ局のパワハラで、どこまでが自身が自主的に仕掛けた行為なのか、分からないだろう。オンナとはそういうふうに厄介なものである。
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コイケ劇場が大失速。すくなくともこれで、日本は救われそうだ。日本が緑のタヌキに化かされる危険は遠のきつつある。日本国民も、それほどお馬鹿さんではないようだ。よかった。
コイケ劇場の第二幕は、田舎芝居の店じまい。まず、希望の党の惨敗から、選挙後におこる野望の党ならぬ野合の党のハチャメチャ劇。責任追及、離党続出、新代表と新執行部の選出。コイケの除名、退陣をふくめた、若狭、細野、長島、松原、玄場のお笑いコント。前原がそのお笑い衆にくわわるか?
そして第3幕は東京都の混乱の後始末。緑のタヌキが演じる都議会ハチャメチャ劇。都議会シアターはオリンピックが最後の仕上げとなる。もしかしたら、途中で緑のタヌキはどろん。木の葉の小判をつかまされる後継都知事は誰になるのか、これも見もの。
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コイケがついに衆院選不出馬になった。この女の政界引退までの一里塚といったところか?
オリンピックはどうなるか?豊洲市場はどうするか?都民ファーストでは何がはじまるか?これからは、負のコイケ劇場が始まりそうだ?
コイケを選んだ人たち、中でも女性たちはやりきれないだろう。でもしっかり現実をとらえ、自分が投じた一票の重みを、その結果をかみ締めて欲しい。
これは、無責任、ムード投票に大きな教訓となるはずだ。オリンピックはコケレば良い。豊洲も築地も生かして、借金をふやし、中国並みのゴーストタウンにすれば良い。それで、都民の目が覚めるなら。
ただし、観客が去っていき、コイケ劇場のカンバンがおろされるまで、後何百億円必要なのだろうか?それもこれも、選挙民が目を覚ますためのコストなのだろう。
もちろん、コイケのことだから、補選を通して、国政にトラバーユ、逃げる算段をもう始めていることだろう。しかし、希望の党は、選挙が終われば、代表選びでコイケは追い込まれる。そうでないまでも、これまた泥舟になるので、脱出するネズミどもが船底で待ち構えている。
またまた政界再編、日本の政治がまともになるには、あとどのぐらいの歳月がかかることやら・・。
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小池百合子のことを各メディア、ネットがいろいろ論評している。いわく、論理の辻褄があわない、思い付きだ、無責任だ、場当たりだ、中味がからっぽ・・などなど。
しかしどうも、どの論評も、女性というものがどういうものか、てんで分かっていない。小池百合子はまさしく典型的な女性であり、発想法、決断の仕方、など女性そのものであって、なにも驚くに当たらない。タイプも状況もまったく違うわけだが、不倫問題で政界からトンズラした、山尾しおりと変わらない。
まさしく女性が、彼女たちにふさわしくない場所に出てきて、彼女たちが信じる行動をして、自身がどのように振舞えばいいのか分からず、破綻しているのだが、彼女たち自身、場違いのところにいるため、そのこと自体、ピンときていないだけなのだ。
女性の中にも、有本香、福島香織、河添恵子など、やっている仕事内容、その主張に舌をまくような人もいる。
話はもどるが、小池は「選挙の結果を見て、首班指名はきめる」という。これは、常識では考えられない答弁で、並み居る評論家も、ここまで次元が落ちると、どう論評していいか苦しんでいる。
彼女の言うことは、すべてこの伝で、政治とは何か、公約とはなにか、改革とはなにか、民主主義はなにかなど、原点の原点から解きほぐさねば答えられないもので、論理のしがらみに前提を持つ者(ふつう皆がそうだ)にとっては、にわかに反論できないものとなっている。
しかし、考えてほしい、選挙でどのような結果が出るか分からない。過半数を超えるか、それとも、そこまで行かないものの、キャスティングボードを握るか、はたまた惨敗して、箸にも棒にもかからないことになるか、今の段階では分からない。
それを、選挙の結果が出てから判断したいというのは、彼女個人に限って言えば理が通っている。彼女は一番いい選択肢を、状況にあわせて選びたいと言っているわけで、それに対して「なにか文句ある?」とでも彼女自身は思っているだろう。
公約の内容も同じだ、「満員電車ゼロ」、「原発ゼロ」、「消費税凍結」など、ゼロ公約自体、彼女の希望なのだ。もっといえば、希望の党の名どおりであって、彼女はその党首なのだ。「なぜわたしが希望して悪い?私は一番いいものを欲しいのよ」とぐらい考えているだけなのだ。まわりを取り巻く女性も「そうよ!そうよ!」と賛同するわけだ。希望や目標と、どうするかの政策は基本的に違うものだが、その違いが分からない。自ら行動しないことが原則となっている、女性というジェンダーはその経験がないから、違いもわからない。
こうした女性、あなたの隣にいて、長年連れ添った女性に、どこかにていないだろうか?
小池の都政と国政の選択も同じ。「私は国政、それも総理になりたいのだけれど、それがかなわなければ、大政党の党首、ダメなら都政、それじゃあダメなの?どうして?それが国民のためなら、いいんじゃないの?」という程度の考えだ。ひとつ付け加えると、何が国民のためか、を結論づけるのは、ほとんど悪魔の証明だから、これを論駁するのは、ほとんど不可能だろう。
「大胆に改革する寛容な保守」というのもおなじ。彼女は「改革」も欲しいし「保守」でもありたい。大胆に決断し、寛容にいいものは取り込みたい。彼女は何でも欲しいのだ。うまくいかなければ、その時点で変更し、切捨てもする。「欲張りだっていうけど、どうして、それがわるいの?」というのが小池の考えている偽らざるところだろう。
つまり、彼女は先々のことを考えた末、先回りして戦略的に言っているのではないのだ。首班指名は「公明の山口党首がいい」と言ったり「連立のことも考える」といったり、「政権選択の選挙」と言ったり。しかし、これは、彼女のそのときそのときの希望であるにとどまらず、状況次第でそうなるのではないか、と自身考えているだけなのだ。決して、戦略的に言っているわけではなく、彼女の本音の一部なのだろう。
都知事にいる、問題が出る、そこでアウフヘーベンして希望の党をつくる首班で出たいが、それが時期でないなら、さらにアウフヘーベンして(修正して)、衆院補選で国政に出る。いろんな方法で過去を否定(止揚)しアウフヘーベンすればいい。彼女は決して頭がいいわけでも、政治勘が働くわけではない。だれも考えない型紙破りで、いろいろな出世の道筋を素直に、女性としての本能で考えているだけなのだ。
ただし、ひとつだけ付言しておくと、彼女のカエルのツラにションベンの鉄面皮は、ほとんどサイコパスと言っていいだろう。女の論理+サイコパスといったところか。
ともあれ、彼女を論評する側の論理は、ご承知のとおり、まったく噛み合うわけがない。小池はそういう論評に「あんたがたこそ、しがらみよ。リセットして、大胆に改革していきましょう」というぐらいに、切り返すだろう。行動に責任を持つ必要のない女性の典型的な言辞である。
これは何を意味しているか?都民ファーストにあれだけの女性票が入ったことをよく考えて欲しい。そして、あなたの隣にいる糟糠の妻をよく観察してほしい。あるいは、飲み会で議論する女子会常連の女性を見て欲しい。
彼女たちは、希望に飢えている。私はいいものは何でもほしい。何でも取り入れればいい、それが何故悪いの?これは小池の発想そのものだ。同じ波長で、互いに共鳴しあっている。
要するに、小池は日本の女性そのもの、といって良い。もっとも、日本にかぎらず、女性一般がそうとも言えるが・・。
わたしは、女性がダメだといっているんではない。なぜなら、冒頭掲げたように、すばらしい仕事をしている女性の論客もいる。つまり、小池に現れていることは、現代の社会と、女性という存在とのあいだに起きている、一種のボタンの掛け違えのようなものだと思う。
わたしは、この原因は女性にあるのではなく、婚姻制度など社会組織の側にあると思う。今の男女のあり方は、私見では100~200年ぐらい経つと変わらざるを得ないと、思っている。そのことはまた改めて論じる機会があると思うが、現在起きている小池現象は男性、女性の関係が、浮き足立った世界での、ひとつの象徴的な現象と私は考えている。いずれにせよ、よくも悪くも、女性が世の中を変えていく。本音を言うと、私はそういう彼女たちとかかわる場所にいたくない。わたしは、そのような問題を解決する器ではない。
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最近、パンプで発行した「クライマーズ・バイブル」を買ってきた。じつはこのブログ、ずいぶん前から考えていたのだが、金にもならないし、おつむを動かすことより、身体を動かすことのほうが大好きなクライマーに、理解できるかどうか分からないし、オリンピックを前にブームになっているクライミングに、躍起になっている業界各氏に、冷や水を浴びせる結果になるし、一般的な風潮とちがう下手なことをいえば、変な目で見られかねない。
そんなこんなで、うっちゃっていたわけだ。ただ、この本の紹介で目次に、「フォーム」という言葉が出たので、すこし驚いて、このブログもそれに触発されてスタートし、前後して、この本を買ってみたわけだ。
いままでクライミングでは、ムーブという言葉、概念設定ですべて説明され、クライマーもそれで納得していた。わたしはひそかに、10年も前から、これは間違いだと思っていた。いま、クライミングで一般に使われているムーブという言葉は、手順から、テクニックから、基本的な身のこなしから、いわばクライミングの際のすべての動きを説明するものとなっている。
わたしはときどき皮肉交じりに言うのだが、これはいわば女性が使う「カワイイ」という言葉と変わりがない。なんでもかんでも、「カワイイ」というのと同じく「ムーブ」だと言っている。語彙の不足というか、精神的な怠惰の現象だ。
もっとも、人は現実をどのように表現しても、構わない。しかし、「カワイイ」などという、その表現、その把握で、思考がその瞬間にストップする。それ以上は、思考は進まない、そこで思考停止で、そのことでかえって安心しているような有様だ。口に出すと冷たい眼で見られるので、めったなことはいえないのだが、クライマーってのは、おんな、こどもと精神状態は変わらんな~と、思っていた。
わたしがこの「ムーブ」という概念に、アンチテーゼのように考えていた概念が「フォーム」という概念で、この「クライマーズ・バイブル」が取り上げるまでは、寡聞にして、どの教本でも見たことがなかったし、聞いたこともなかった。猫も杓子も「ムーブ」だった。それゆえに驚いたのだ。
その意味では、この本は新しい概念に気づいて、取り入れたということで、私はそれだけで、ず~つと思考と理論がワンパターンに陥って、停滞していたクライミングの世界において、理論面でひとつの功績ではないか、と思っている。理論というのは、むずかしいことを言うのではない、あたらしい別の見方で現実を説明し、取り組みを前に進めることだ。
ただ、購入してがっかりした。概念思考は、まるでとばぐちにしか立っていない。ムーブという概念は、身体の動きを細分化して説明する方法なのだが、この細分化法をボディの動きでやってみようという程度のもので、ようするに、手足の動き以外に、ボディの動きを、単に並列化して並べただけ。実際のクライミングの際の、身体の動きに踏み込んでいないし、全体を説明するダイナミズムに欠けている。
個々のテクニックは、いろいろな教本が、いやというほど説明している。いや、人と同じ説明を繰り返しに繰り返し、よくあきもせず、それでいいと思っている、そんな指導者の神経が理解できない。この本も、錚々たるクライマーが集って、討議した結果だそうだ。かれらはいったい何をみているのか、理解に苦しむ。クライマーってその程度のおつむなのかな、と長年ひとりごちていたわけだ。
このブログは、フォームという概念も含めて、クライミングを全体として捉えようというものである。というより、基本の捉え方を、いま少し根本的に、転換しようというものだ。すでに書き溜めているものもあるが、「分からない人たちに言っても、嫌われるだけ」という思いで、気持ちの萎えることも多く、完成までに、何ヶ月かかるか分からない。まあ、とにかくスタートしたのだ。このブログは、あくまで話をまとめるための下書き。きょうHPを開設したが、完成原稿は、別途、そちらで発表していく。
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コイケ劇場が大失速。すくなくともこれで、日本は救われそうだ。日本が緑のタヌキに化かされる危険は遠のきつつある。日本国民も、それほどお馬鹿さんではないようだ。よかった。
コイケ劇場の第二幕は、田舎芝居の店じまい。まず、希望の党の惨敗から、選挙後におこる野望の党ならぬ野合の党のハチャメチャ劇。責任追及、離党続出、新代表と新執行部の選出。コイケの除名、退陣をふくめた、若狭、細野、長島、松原、玄場のお笑いコント。前原がそのお笑い衆にくわわるか?
そして第3幕は東京都の混乱の後始末。緑のタヌキが演じる都議会ハチャメチャ劇。都議会シアターはオリンピックが最後の仕上げとなる。もしかしたら、途中で緑のタヌキはどろん。木の葉の小判をつかまされる後継都知事は誰になるのか、これも見もの。
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コイケがついに衆院選不出馬になった。この女の政界引退までの一里塚といったところか?
オリンピックはどうなるか?豊洲市場はどうするか?都民ファーストでは何がはじまるか?これからは、負のコイケ劇場が始まりそうだ?
コイケを選んだ人たち、中でも女性たちはやりきれないだろう。でもしっかり現実をとらえ、自分が投じた一票の重みを、その結果をかみ締めて欲しい。
これは、無責任、ムード投票に大きな教訓となるはずだ。オリンピックはコケレば良い。豊洲も築地も生かして、借金をふやし、中国並みのゴーストタウンにすれば良い。それで、都民の目が覚めるなら。
ただし、観客が去っていき、コイケ劇場のカンバンがおろされるまで、後何百億円必要なのだろうか?それもこれも、選挙民が目を覚ますためのコストなのだろう。
もちろん、コイケのことだから、補選を通して、国政にトラバーユ、逃げる算段をもう始めていることだろう。しかし、希望の党は、選挙が終われば、代表選びでコイケは追い込まれる。そうでないまでも、これまた泥舟になるので、脱出するネズミどもが船底で待ち構えている。
またまた政界再編、日本の政治がまともになるには、あとどのぐらいの歳月がかかることやら・・。
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小池百合子のことを各メディア、ネットがいろいろ論評している。いわく、論理の辻褄があわない、思い付きだ、無責任だ、場当たりだ、中味がからっぽ・・などなど。
しかしどうも、どの論評も、女性というものがどういうものか、てんで分かっていない。小池百合子はまさしく典型的な女性であり、発想法、決断の仕方、など女性そのものであって、なにも驚くに当たらない。タイプも状況もまったく違うわけだが、不倫問題で政界からトンズラした、山尾しおりと変わらない。
まさしく女性が、彼女たちにふさわしくない場所に出てきて、彼女たちが信じる行動をして、自身がどのように振舞えばいいのか分からず、破綻しているのだが、彼女たち自身、場違いのところにいるため、そのこと自体、ピンときていないだけなのだ。
女性の中にも、有本香、福島香織、河添恵子など、やっている仕事内容、その主張に舌をまくような人もいる。
話はもどるが、小池は「選挙の結果を見て、首班指名はきめる」という。これは、常識では考えられない答弁で、並み居る評論家も、ここまで次元が落ちると、どう論評していいか苦しんでいる。
彼女の言うことは、すべてこの伝で、政治とは何か、公約とはなにか、改革とはなにか、民主主義はなにかなど、原点の原点から解きほぐさねば答えられないもので、論理のしがらみに前提を持つ者(ふつう皆がそうだ)にとっては、にわかに反論できないものとなっている。
しかし、考えてほしい、選挙でどのような結果が出るか分からない。過半数を超えるか、それとも、そこまで行かないものの、キャスティングボードを握るか、はたまた惨敗して、箸にも棒にもかからないことになるか、今の段階では分からない。
それを、選挙の結果が出てから判断したいというのは、彼女個人に限って言えば理が通っている。彼女は一番いい選択肢を、状況にあわせて選びたいと言っているわけで、それに対して「なにか文句ある?」とでも彼女自身は思っているだろう。
公約の内容も同じだ、「満員電車ゼロ」、「原発ゼロ」、「消費税凍結」など、ゼロ公約自体、彼女の希望なのだ。もっといえば、希望の党の名どおりであって、彼女はその党首なのだ。「なぜわたしが希望して悪い?私は一番いいものを欲しいのよ」とぐらい考えているだけなのだ。まわりを取り巻く女性も「そうよ!そうよ!」と賛同するわけだ。希望や目標と、どうするかの政策は基本的に違うものだが、その違いが分からない。自ら行動しないことが原則となっている、女性というジェンダーはその経験がないから、違いもわからない。
こうした女性、あなたの隣にいて、長年連れ添った女性に、どこかにていないだろうか?
小池の都政と国政の選択も同じ。「私は国政、それも総理になりたいのだけれど、それがかなわなければ、大政党の党首、ダメなら都政、それじゃあダメなの?どうして?それが国民のためなら、いいんじゃないの?」という程度の考えだ。ひとつ付け加えると、何が国民のためか、を結論づけるのは、ほとんど悪魔の証明だから、これを論駁するのは、ほとんど不可能だろう。
「大胆に改革する寛容な保守」というのもおなじ。彼女は「改革」も欲しいし「保守」でもありたい。大胆に決断し、寛容にいいものは取り込みたい。彼女は何でも欲しいのだ。うまくいかなければ、その時点で変更し、切捨てもする。「欲張りだっていうけど、どうして、それがわるいの?」というのが小池の考えている偽らざるところだろう。
つまり、彼女は先々のことを考えた末、先回りして戦略的に言っているのではないのだ。首班指名は「公明の山口党首がいい」と言ったり「連立のことも考える」といったり、「政権選択の選挙」と言ったり。しかし、これは、彼女のそのときそのときの希望であるにとどまらず、状況次第でそうなるのではないか、と自身考えているだけなのだ。決して、戦略的に言っているわけではなく、彼女の本音の一部なのだろう。
都知事にいる、問題が出る、そこでアウフヘーベンして希望の党をつくる首班で出たいが、それが時期でないなら、さらにアウフヘーベンして(修正して)、衆院補選で国政に出る。いろんな方法で過去を否定(止揚)しアウフヘーベンすればいい。彼女は決して頭がいいわけでも、政治勘が働くわけではない。だれも考えない型紙破りで、いろいろな出世の道筋を素直に、女性としての本能で考えているだけなのだ。
ただし、ひとつだけ付言しておくと、彼女のカエルのツラにションベンの鉄面皮は、ほとんどサイコパスと言っていいだろう。女の論理+サイコパスといったところか。
ともあれ、彼女を論評する側の論理は、ご承知のとおり、まったく噛み合うわけがない。小池はそういう論評に「あんたがたこそ、しがらみよ。リセットして、大胆に改革していきましょう」というぐらいに、切り返すだろう。行動に責任を持つ必要のない女性の典型的な言辞である。
これは何を意味しているか?都民ファーストにあれだけの女性票が入ったことをよく考えて欲しい。そして、あなたの隣にいる糟糠の妻をよく観察してほしい。あるいは、飲み会で議論する女子会常連の女性を見て欲しい。
彼女たちは、希望に飢えている。私はいいものは何でもほしい。何でも取り入れればいい、それが何故悪いの?これは小池の発想そのものだ。同じ波長で、互いに共鳴しあっている。
要するに、小池は日本の女性そのもの、といって良い。もっとも、日本にかぎらず、女性一般がそうとも言えるが・・。
わたしは、女性がダメだといっているんではない。なぜなら、冒頭掲げたように、すばらしい仕事をしている女性の論客もいる。つまり、小池に現れていることは、現代の社会と、女性という存在とのあいだに起きている、一種のボタンの掛け違えのようなものだと思う。
わたしは、この原因は女性にあるのではなく、婚姻制度など社会組織の側にあると思う。今の男女のあり方は、私見では100~200年ぐらい経つと変わらざるを得ないと、思っている。そのことはまた改めて論じる機会があると思うが、現在起きている小池現象は男性、女性の関係が、浮き足立った世界での、ひとつの象徴的な現象と私は考えている。いずれにせよ、よくも悪くも、女性が世の中を変えていく。本音を言うと、私はそういう彼女たちとかかわる場所にいたくない。わたしは、そのような問題を解決する器ではない。
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では、クライミングがどのようなスポーツか、またどのように把握して、位置づければいいのか?結論からいうと、現在、一般にクライミングというスポーツは、身体の動きから言って、2つの方向に引き裂かれていると言える。
図のように、一方の極には登山(クライミング)があり、もう一方の極には体操(ジムナスティック)があり、各ジャンルはこの2極の間のどこかに位置づけることが出来る。
両極のうち、まず登山の極とはどういうものだろうか?図にこれの身体の動きの要素をあげておいた。持久力、省力、ナチュラル、休息(レスティング)・・などだ。
一方、体操の極とは、器械体操(apparatus
gymnastic)をイメージすればいい。これの要素は、瞬発力、跳躍力、反射神経、身のこなし(ひねりなど)、身体の柔軟性・・・などである。
この両極に共通するのは、バランス、筋力、保持力、タクティクス(戦術)、ルートファインディング・・などである。
ここまでは、当たり前といえば当たり前なのだが、この両極がかならずしも協調せず、お互いに相反しあい、これらの要素がわれわれの身体の動きにおいて、たがいに互いを邪魔する阻害要因となっていることが問題なのである。
具体的なことについて、科学的に解明すればいいのだが、複雑に絡み合った要素を解明するのは困難であり、私にはその力もない。しかし、常識と経験があれば、それは理解できる。いくつかの例をあげれば、私の言わんとするところは、クライミングに少し接したことのある人なら、理解できるだろう。
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開設日: 2017/9/17(日)